時光窯(じこうがま)
特集 「縄文LOVE 〜古代の魅力〜」に掲載されました。
Webでも紹介いただいています。 → イマカナ by 神奈川新聞
埴輪1千体、人の流れ生む
神静民報にはにわ制作を紹介いただきました。
松田山「時光窯」を訪ねて 磯村真
今から14年くらい前に紹介されたこの場所は、雑草木が繁る斜面でしたが、道をつくり、平地を開き窯と建物の場所を整え、熱海にあった僕の先生の窯を壊しレンガを運び込み、廃材や間伐の丸木を集め、町に申請を出し、近隣の理解をもらい、小さな小屋と7メートルの穴窯を築きました。途中でジリ貧になり、床と屋根しか無い小屋で展示会をし、どれ程の量かも見当がつかぬまま薪を集め、初窯に火を入れたのは山の草刈をしてから1年後でした。
初窯ではそれまで僕が憶えて来た事の全てを注ぎ込んでカスカスになっても、まだ焼けない窯に、全く自分は何も持っていなかった事を思い知る結果になりました。それでも窯出しの日に大勢の人がお祝いに集まってくれました。あの日、この時光窯は決して僕一人で作ったのでなく、そして僕一人のものでも無い事、いつかは良いものを焼いて皆んなの期待に応えられるようになりたいと心に誓いました。
それからは窯焚きを柱に生活のスタイルをつくり2回、3回と手探りの窯焚きを始めました。当然毎回燃やせど燃やせど温度は上がらず薪は減るばかり、懸命に手伝ってくれる友人たちに申し訳なくて、こんなんで僕の先生のように窯が焚けるようになるのかしらと、なさけなくて、悔しくて、いらだちながら、言い訳ばかりしている窯焚でした。
ようやく何とかなりそうと思え始めたのは3、4年経った頃からだと思います。薪集めに山を走り廻っていた僕に、薪材を提供してくれる人が現れ、薪になりそうな材木を見聞きしては連絡をしてくれる人が居て、薪集めに余裕が出来てきました。友人達の協力の下、窯焚の日数を1週間程に延ばす事で焦る気持ちが無くなりました。
すると少しづつですが、炎の事が見えて来て、理想と今回の目標、自らの立ち位置が整理できるようになってきました。
いつしか僕は弟子入りした時の先生の歳に近づき、独立して10年が過ぎていました。窯焚は毎回手伝ってくれる友人達の腕が上達し、薪も良質になって、少しずつスムーズに焚き上がるようになって来ました。同時に僕自身の作陶の腕前も上達したでしょうか。
勢いで作った穴窯も10年の間にだいぶ老朽化し変形して来ておりました。窯焚きを重ねる度、始めはアーチ型だった天井も平らを通り越えて、ハート型にまで下がって来てしまいました。いよいよ直すかと、思案していた所に、函南の先生から、薪窯を壊すのでレンガあげると助け舟。再び人の手を大いに借り、レンガを運び込み、窯を新しく造り直すことをようやく決心いたしました。
初代時光窯から得た失敗と実験をもとに新たに築いた窯は三室の登り窯です。
新生時光窯は、この場所を貸し、窯焚を助け、薪を提供し、作品を購入し、山へ足を運び、遠くから見守り励ましてくれた皆様へ感謝を込めて、2010年初窯の炎を上げました。
「時光窯」周辺には桜や菜の花が満開になり松田山から足柄平野を眺める景色は最高でした。志村氏の初窯案内状の詩に
新しい風に吹かれて/全てのお花が可愛く見えたら/この風に乗って/きっと未来に行けるはず/
と書いている。
「旅の終わりはまた新たな旅の始まりですね。星は皆一つずつの星ですが、ある天体をもって動いております。遠く離れておりましても、裏側で目に見えなくなっていたとしても、やっぱり一緒に動いております。何万光年という時間を永遠と呼ぶかは判りませんが、少なくとも生きているうちは未来があります。縁あって、共に生まれ、見知った仲です。天体のごとく、それぞれに輝きながら一緒に回っていきましょう。まだしばらくお付き合いくださいませ。(志村正之)